お芝居&映画『アマデウス』以来、アントニオ・サリエリには「モーツァルトの敵役」というイメージが定着してしまいました。「才能を妬んだサリエリが、モーツァルトを毒殺した」という『アマデウス』の結末がフィクションであることは、皆さんご存知だと思いますが、漠然と「モーツァルトの邪魔をした、いやな奴」と思っていませんか? それって本当? サリエリって、どんな人だったんでしょう?

モーツァルトよりも6年早い1750年に、イタリアのレニャーノに生まれました。ヴァイオリニスト、タルティーニの弟子であった兄やレニャーノ大聖堂のオルガニストに、ヴァイオリンや鍵盤楽器を習います。1763年か64年に両親が亡くなり、パドヴァからヴェネツィアへ。1766年に当地を訪れていたフローリアン・ガスマン(1729〜74)に見出され、教育を受けるために一緒にウィーンへ。

ガスマンは63年以来、ウィーンの宮廷作曲家を務めていました。彼は有名な対位法の教科書『グラドゥス・アド・パルナッスム』を使って、サリエリに作曲を指導。20歳で最初のオペラを作曲し、あっという間に人気オペラ作曲家に。74年にガスマンが亡くなると、なんと若干23歳のサリエリが、師の後を継いでウィーン宮廷作曲家に。88年には宮廷楽長になり、亡くなる前年の1824年までその職にとどまりました。

1781年にモーツァルトがウィーンに移り住んだとき、彼は父レオポルトに、ヨーゼフ2世はサリエリしか関心がないと書いています1。一方サリエリも、神童と言われたモーツァルトがフリーランスとしてウィーンで活動を始めたのですから、意識したに違いありません。彼は大きな影響力を持っていましたから、モーツァルトを助けようと思えば助けられたはず。助けなかったのは敵同士だったから……というわけでもないことが、以下の手紙からわかります。モーツァルトが《魔笛》の公演にサリエリを招待したとき:

[昨日、13日の木曜日]6時にサリエリとカヴァリエーリ夫人を馬車で迎えに行き、ぼくのボックスに案内した。……これほど美しくて楽しい出し物は観たことがないから、何度も観に来たい、などと言っていた。サリエリは細心の注意を払って聴いたり観たりしていたが、序曲から最後の合唱まで、彼が「ブラヴォー!」とか「お見事!」とか言わなかった曲はひとつもなかった。彼らは、ぼくの好意に対していくら礼を言っても言いたりないという様子だった2

サリエリは、後進の指導にもとても熱心でした。作曲(イタリア語の詩に曲を付けるレッスン)の弟子には、ベートーヴェン、フンメル、チェルニー、マイアベーア、モシュレス、シューベルト、リストらが含まれます。サリエリは、一文無しの孤児であったときにガスマンから受けた恩を忘れず、裕福な生徒以外はレッスン料を受け取らなかったそうです。 サリエリって、良い人だったんですね!!!   だからこそコンスタンツェも、夫の死後、息子フランツ・クサーヴァーの指導をサリエリに託したのでしょう。

  1. 1781年12月15日付け、レオポルトへの手紙。
  2. 1791年10月14日付け、バーデンで療養中のコンスタンツェに宛てたの手紙。マーシャル『モーツァルトは語る』高橋&内田訳、春秋社、1994、p.377。