4月の聖フィル第20回記念演奏会で取り上げる、マーラーの交響曲第1番《巨人》((169) 交響曲と歌曲:マーラーの《巨人》(170) マーラーの交響曲と実用音楽も参照)。みなさま、どのような「巨人」をイメージしておられるでしょうか。

このタイトルは、マーラーが1893年ハンブルクで指揮した第2稿に、ジャン・パウルの著作『巨人』にちなんで加えたもの。最初にブタペストで指揮(1889年)したときは、ただの「2部から成る交響詩」でした。この初演が成功しなかったので、「交響曲形式による音詩(注:交響詩のこと)《巨人》」に改訂。この第2稿も成功しなかったので、1896年にベルリンで指揮するとき第2楽章を削除して交響曲に仕立て直し、《巨人》を含め全ての標題を削除しました。

西洋音楽史の講義で、このような複雑な成立史を説明するのですが、ジャン・パウルがどのような人で、『巨人』がどのような小説なのか、知りませんでした。《ニーベルンクの指輪》のファーゾルトやファーフナーのような、文字通りの巨人? それとも何かの比喩?? ドイツ人なのにどうしてジャン???

ジャン・パウルはペン・ネームで、本名はヨーハン・パウル・フリードリッヒ・リヒター(Johann Paul Friedrich Richter 1763〜1825)。ドイツの中でも最も後進的だったバイロイト侯国の小村ウンジーデル生まれ1。オルガニスト兼教師、牧師の父が79年に亡くなり、家庭は困窮。81年にライプツィヒ大学神学部に入学しますが、すぐに読書と創作に没頭。文壇的には不成功で、家庭教師などで収入を得ます。

93年、ジャン=ジャック・ルソーに敬意を表したペン・ネーム、ジャン・パウルを使って長篇小説『見えないロッジ』を出版。『ヘスペルス』や『フィクスライン』で成功を収めながら『巨人』を書き続けます。完成に10年かけ、4巻本として1800〜03年に出版。パウルは構想の段階からこの作品を、自分の「マンモス=巨人」「枢要にして随一の大長篇小説」とみなしています。

図1:ジャン・パウル『巨人 I』1971

日本では、古見日嘉の訳で1971年に出版されました(現代思潮社、古典文庫44)。第1巻表紙には右下に黒いインクで:

牧歌的私服への憧憬と、虚偽と虚栄とを憎む批判精神、ローマン的な空想の昂揚と現実的思慮分別、これら矛盾を最大の振幅をもってくりひろげつつ、世界を一冊の本に置換せんとした厖大な《物語》。

左下には赤茶のインクで:

バロック精神の息吹に充ち、ドイツ古典主義とローマン派との橋わたしを演じつつも、偏愛か黙殺かという極端な運命に弄ばれてきた、J・パウルの代表作を、パウル研究の第一人者による多年の成果を得て、ここに初めて完訳する。

物語冒頭は:

とある美しい春の宵に、若い、スペインの伯爵セサラは、ショッペとディーアンとを従えて、翌朝、マジョーレ湖中のボロメオ諸島の1つ、イソラ・ベラ(美島)へと渡航するために、セストへやってきた。誇らかに、花と咲くこの青年は、今回の旅行によって燃えあがり、次の朝のことを考えては、ほてっていた。この朝こそ、彼は、その島を、春の、飾り立てられた、この玉座を見るはずであり、また、二十年間、彼に約束されていた、ある人に、この島で会うことになっているのだ2

このスペインの若い伯爵アルバーノ・ド・セサラが主人公。文章自体は特に難しくないのですが、アルバーノの成長物語が延々延々と続いて、なんだか要領を得ません。1997年に出版された新装版の巻末にわかりやすい解説があるという情報を見つけて、図書館に直行(注1参照)。図1の3巻本が1冊になった新装版は、B5版厚さ5cm以上の巨本!! 表紙左下の惹句は:

図2:ジャン・パウル『巨人』1997

萌え輝く色彩と至深のひびきを持つ交響曲的小説により、〈散文〉の可能性を追求した夢の巨匠、ジャン・パウルの畢生の大著の完訳

交響曲的小説??を追求するのは置いて、さっそく巻末の「解題」を見ると。「最初に読者の便をおもんばかって『巨人』の梗概を記しておく」。感謝!!! ファーゾルトやファーフナーのような巨人は出てきませんから、巨人のお話ではありません。でも、700ページを超える大長篇で、しかも物語は錯綜して情報量がむやみと多い。そこが、マーラーの交響曲第1番と共通していると言えるかもしれません。

当時のウィーンの聴衆たちにはこの曲の響きは斬新すぎて、「騒音」でした。ウィーン初演の際、ハンスリックは「私たちのうちどちらかは気が狂っている。そしてそれは私でそうはない」と批評したそうです3

  1. 以下の情報は、ジャン・パウル『巨人』 古見日嘉訳、国書刊行会、1997年(新装版)の巻末に収められた岩田行一の「『巨人』解題」750−774による。
  2. ジャン・パウル『巨人 I』古見日嘉訳、現代思潮社、1971年、11ページ。
  3. 渡辺裕「交響曲第1番」『ブルックナー/マーラー事典』東京書籍、1998、300。

遅ればせながら、明けましておめでとうございます。2019年がみなさまにとって良い年となりますように。今年もオケ部屋をよろしくお願いいたします。

[12] 実は結構良い人だったサリエリに続くモーツァルトをめぐる人々シリーズ第2弾は、ミヒャエル・ハイドン(1737〜1806)。古典派3巨頭のひとり、ヨーゼフ・ハイドン(1732〜1809)の5歳下の弟。ザルツブルク宮廷音楽家で、ヴォルフガンク・アマデウス・モーツァルト(1756〜1791)やその父レオポルト(1719〜1787)の同僚でした。様々なジャンルで多くの作品を残し、特に宗教音楽は高く評価されます。

ヨーゼフと同様ミヒャエルも、現在のオーストリアとハンガリーの国境に近い、ローラウに生まれました1。父は車大工。馬車や荷車の車輪を作ったり修理したりする職人です。職業が世襲の時代に、楽譜が読めない両親から音楽史に名を残す作曲家が2人も生まれるなんて、すごいことです。

8歳のとき、兄に次いでウィーンの聖シュテファン大聖堂の聖歌隊学校に入学。12歳までには、大聖堂で代理オルガニストも務めるように。1753年ころ声変わりして聖歌隊学校をやめ、その後はイエズス会の神学校に所属していたようです。

彼の死者小伝(1808)によると、1757年ころウィーンを離れ、現ルーマニアのグロースヴァルダイン司教の楽長に。作品の筆写譜がオーストリア東部地域にたくさん残されており、1750&60年代にはかなり名前が知られていたのでしょう。ザルツブルク大司教シュラッテンバッハの目に留まり、1762年に大司教宮廷楽団のコンサートマスターに任命されます。オルガンを弾くことも、職務に含まれていました。

シュラッテンバッハ大司教の死に際して、レクイエムを作曲。1777年には、聖三位一体教会のオルガニストになります(息子ヴォルフガンクがその職に就けなかったことに腹を立て、レオポルトはそれまで賞賛していたミヒャエルを、大酒飲みで怠惰でありがちだと描写しました)。ヴォルフガンクが1781年にウィーンへ移った後は、宮廷オルガニストの職を引き継ぎました。

1790年代には作曲の教師として活躍。《魔弾の射手》で有名なカール・マリア・フォン・ヴェーバー(1786〜1826)は、1797年からミヒャエルに和声学の基礎と対位法を学んでいます。1806年、兄ヨーゼフよりも先に68歳でザルツブルクで亡くなりました。

兄ヨーゼフには及びませんが、ミヒャエルも多作な作曲家で、特に宗教曲は(途方に暮れるくらい)たくさんありました。でも、ミヒャエル・ハイドンと言えば、モーツァルトの交響曲第37番を思い出す方が多いと思います。モーツァルトの交響曲第37番が欠番なのは、37番と信じられていた曲が実はミヒャエルの作品だったからですよね(続く)。

  1. Blazin, Dwight, ‘Haydn, Michael,’ The Grove Dictionary of Music, 2nd ed., vol. 11, Macmillan, 2001, pp. 271-280.

オーケストラ・コンサートのアンコール・ピースとしておなじみのブラームスのハンガリー舞曲。実は元々、オーケストラ作品ではなかったことをご存知でしょうか。21曲から成るこの舞曲集のオリジナルは、ピアノ曲。それも、ピアノ連弾曲です。

1869年に、まず10曲をジムロック社から出版。大人気になり、ブラームスを経済的に安定させました。長いものでも4分半、短いものは1分半足らず。簡単過ぎず難し過ぎず。家庭にピアノが普及した時期で、手頃な楽譜の需要が高まっていました。しかも連弾。家族でアンサンブルを楽しめます。エキゾティックなスパイスが効いていて、これは売れないはずありません。

ブラームスは、伝統的なハンガリーの民謡を連弾に編曲したつもりでした(自分のオリジナルではないので、作品番号を付けていません。WoO 1は 作品番号の無い作品 Werke ohne Opuszahl 第1番のこと (239) opus, WoO, Hess:ベートーヴェンの作品番号参照)。でも実はハンガリーではなく、ロマ(「ジプシー」は差別用語ということで、最近はこの語を使います)の民俗音楽でしたが。

さらに、民俗音楽では無いものも。最もよく知られた第5番は、ハンガリーの作曲家ベラ・ケーレル(Béla Kéler、1820〜82)のチャールダーシュ《Bártfai emlék(バルデヨフの思い出)》に基づいています 1。第1番も、同じくハンガリーの作曲家ミスカ・ボルソー(Miska Borzó、1800?〜64?)が1850年ころに作った《Divine Csárdás(神聖なチャールダーシュ)》によります 2

72年にはピアノ独奏用にアレンジ。翌73 年には演奏会で指揮するために、3曲(第1番ト短調、第3番ヘ長調,10番ホ長調)をオーケストレーションしました。1880年にはさらに11曲のピアノ連弾曲を出版。ブラームス本人がオーケストレーションしなかった18曲は、他の人によってオケ用に編曲されています。

  1. Walker, Alan. Franz Liszt: The Virtuoso Years, 1811–1847. Cornell University Press. 1987, p. 341.
  2. Katia  & Marielle Labèque による静止動画 https://www.youtube.com/watch?v=GPY91D-0LDk 参照。

早いもので、既に12月も半ば。アドヴェント(待降節)真っ只中です((56) アドヴェントと音楽参照)。聖フィル・コラムで書いていた「クリスマスに聴きたい音楽」シリーズ、ここオケ部屋でも続けたいと思います。part 10 として今回取り上げるのは、ローリゼンのモテット《おお、大いなる神秘よO Magnum Mysterium》です。

モテットとは、ラテン語を歌詞とする多声宗教曲。オケ部屋なのになんだ歌の曲か、と言わないでくださいね。器楽奏者や器楽愛好家のなかには声楽がちょっと(?!?)苦手な方もいますが、クラシック音楽のルーツはカトリックのお経であるグレゴリオ聖歌。楽器奏者にとっても歌は、常に立ち返らなければならない音楽の原点です。カンタービレ(歌うように)って、全ての楽器演奏の理想ですよね。

《おお、大いなる神秘よ》は、ルネサンス時代のスペインの作曲家ビクトリアのモテットを既にご紹介しました((60) part 4参照)。今回もビクトリアと同じ、クリスマスの朝課(一日8回祈る聖務日課のなかの最初のお祈り)に歌われる、レスポンソリウム(グレゴリオ聖歌の種類)の歌詞に作曲されています。無伴奏のア・カペッラ様式、混声4部もビクトリアと共通。ただ、響きはかなり異なります。

それもそのはず。モートン・ローリゼン Morten Lauridsen は1943年アメリカ生まれ。1548年生まれのビクトリアと、400歳も違うのです。

南カリフォルニア大学で作曲を学び、博士号取得後の1967年から同校で教えています。2006年、National Endowment for the Arts (アメリカの国立芸術基金)が「American Choral Master(アメリカの合唱の巨匠)」に指名。また、2007年には「音楽の美しさと力強さと精神的な深さを結びつけ、世界中の聴衆を感動させる輝くような合唱作品の作曲により」ジョージ・W. ブッシュ大統領(当時)からホワイト・ハウスで National Medal of Arts(アメリカ国民芸術勲章)を授与されました。

《おお、大いなる神秘よ》は、1994年の作品。4声が基本ですが、ときどき声部内で2つあるいは3つに分かれることもあります。ときどき聴かれる不協和な響きが、とても魅力的。「ぶつかり」のさじ加減が、絶妙なのです。無調ではなく調性に基づいた音楽ですが、9の和音(たとえばソ、シ、レ、ファの7の和音に、もうひとつ3度を加えたソ、シ、レ、ファ、ラ)のような不協和な響きを使い、それが慎重に協和音に解決される「緊張と弛緩」が音楽の流れを作ります。

キングス・カレッジの聖歌隊がゴシック建築のチャペルで歌う動画(https://www.youtube.com/watch?v=Q7ch7uottHU)で、中世と現代の融合をお楽しみください。

おお大いなる神秘よ
そして驚くべき秘跡よ
動物たちが見たとは、生まれたばかりの主が
まぐさ桶の中に横たわっているのを。
おお祝福された乙女よ、その胎は値したのだ
主イエスキリストをみごもることに、
ハレルヤ(細川哲士訳)

アマ・オケでもコンサート前に行うゲネプロ。ドイツ語のゲネラルプローベの短縮形です。通し稽古と訳されることが多いですが、オーケストラによって使い方がまちまち。ゲネラルプローベって、本来はいつ何をするものなのでしょう?

日本語版ウィキペディアは(西洋音楽史以外の項目も)信用できるかどうか心許ない([2] ウィキペディア・ジョーク?!? レスピーギの《パッソ・メッゾ》参照)。いつものように英語版ウィキペディアを……と思ったら、英語版にはゲネプロもゲネラルプローベもありませんでした。英語圏では、この用語は使わないんですね(当たり前か)。

というわけで、本家本元ドイツ語版ウィキペディアによると。ゲネラルプローベ Generalprobe(短縮形はゲネプロではなく GP ゲーペー)の定義は「演劇やオペラ、オペレッタ、あるいはコンサートの初日の前に行われる、最後のリハーサル」。最後から2番目や3番目のリハーサルは、ハウプトプローベ Hauptprobe。最後の1回だけがゲネプロです。

オペラのゲネラルプローベは通常、初日の2日前。通常のリハーサルとは異なり、衣装やかつらを付けメーキャップも施し、舞台装置やライティングも本番どおり(そのため、英語圏ではドレス・リハーサルと呼ばれます)。しばしば公開で行われます。

コンサートのゲネラルプロ―べは舞台芸術の場合ほど重要ではなく、何回か行われるリハーサルのうちの最後を指すだけ。各曲を少なくとも1度は通して演奏するのが普通です。海外からのソリストや国際的スター指揮者を含め、出演者が勢揃い。本番会場でのリハーサルなので、ホールの響きを確認したり、ステージ上のレイアウトやスペースを把握する機会としても重要です。

日本のアマ・オケではほとんどの場合、本番会場での練習は当日のみ。ですから、演奏会当日の本番前のリハーサルが、本来の意味のゲネプロですね。聖フィルは恵まれていて、本番のホールで前日を含め複数回練習できることが多いのですが、本番当日も各曲を通してリハーサルしますから、やはりこれがゲネプロ(プロ・オケの当日リハーサルは、要所を確認するだけです)。

ところで、ドイツ語版ウィキペディアでおもしろいなと思ったのは、オペラや演劇のカンパニーには、「失敗したゲネラルプローベは、良い公演の原因となる Eine  misslungene Generalprobe eine gute Aufführung bedingt.」という迷信の格言があるという記述。「だから、ゲネラルプロ―べの最後で喝采すると、演劇人に眉をひそめられる。なぜならそれは初日に不幸をもたらすから」。

初耳だったので、検索してみました。確かにこの格言はドイツのスポーツ記事などにそのまま使われていましたし、ゲネプロの最後に拍手をすると、初日に不幸をもたらすのでいやがられるという記載を他でも見つけました。コンサートではなく演劇やオペラのゲネラルプローベですが、日本では聞いたことありませんね。やはり本家ドイツ語圏のゲネプロは、日本とは少し異なるようです。