4月の第20回定期演奏会のプログラムは、リヒャルト・シュトラウスのホルン協奏曲とグスタフ・マーラーの交響曲。ふたりとも聖フィルで初めて取り上げる作曲家で、両方とも難曲。意外な転調など、先を予想しにくいのです。調性があいまいになった「世紀末」に活躍した作曲家ならではです。

このふたり、同年代。マーラーは1860年、リヒャルト・シュトラウス(以下リヒャルト。シュトラウスと書くと、ウィンナ・ワルツのヨハン・シュトラウス父子をイメージすると思うので)は1864年生まれ。また、ふたりともドイツ語圏の生まれ(マーラーはオーストリア、リヒャルトはドイツ)です。

そして、ふたりとも指揮者、特にオペラの指揮者として活躍しました。指揮者にとって世界1のポジションとも言えるウィーン国立歌劇場の指揮者を、マーラーは1897年から1907年まで(この時代はまだウィーン宮廷歌劇場でしたが)、リヒャルトは1919年から24年まで務めています。

生年は近いのですが、没年はかなり違います。マーラーは敗血症のため、1911年に働き盛りの50歳で亡くなりました。一方、リヒャルトが心不全で死去したのは1949年。85歳でした。マーラーの死後リヒャルトが生きた35年間は、2つの世界大戦により、世界が大きく揺れ動いた時期です。

マーラーは、両親ともにユダヤ人でした。1897年にローマ・カトリックに改宗しますが、ユダヤの出自は彼の人生に(死後も)大きな影響を与えます。一方のリヒャルトは、一人息子フランツの結婚相手アリスがユダヤ人(これも、リヒャルトの人生に影響を与えます)ですが、本人はドイツ人です。

作曲家としての活動内容も異なります。マーラーは主に交響曲とオーケストラ伴奏付き歌曲を作曲。オペラをいくつか手がけたものの、いずれも完成しませんでした。一方のリヒャルトは、1900年までは主に交響詩、それ以降はオペラを多数作曲。アルプス交響曲などの交響曲や、2つのホルン協奏曲のようなコンチェルトなどもあります。

リヒャルトは、18歳で作曲した《13管楽器のためのセレナード作品7》がハンス・フォン・ビューローに高く評価されました。その後も(交響詩《マクベス》のような例外もありますが)、ほぼ順調。一方マーラーは、交響曲8番の初演(1910年)がようやく大成功しましたが、それまでの7つの交響曲は(様々な版で初演されたものの)成功とは言えませんでした(期待はずれ、あるいは「聴衆を当惑させた」など)。

互いに知り合いで、行き来もあったマーラーとリヒャルト・シュトラウス。前者はその出自と早すぎた死も影響し、音楽が理解され演奏されるようになるまでに長い時間を要します。後者はナチスとの関係や遅すぎた(!?!)死などにより、晩年の作品は時代遅れとみなされました。

19世紀末の爛熟した文化の面影を残すふたりの巨匠の、交響曲第1番(第3稿1896年)と、懐古的なホルン協奏曲第2番(1842年)。今回の聖フィルのプログラム、音楽史的に深〜いプログラムになっています。

調査旅行後半はイタリアのミラノ音楽院(ヴェルディ音楽院)図書館。ミラノ滞在中、初めてスカラ座に行ってきました。今回はそのご報告。

夜のスカラ座(写真はいずれもクリックで拡大)

2月17日(日)20時から、スカラ座管弦楽団のコンサート。クリストフ・フォン・ドホナーニがキャンセルしてしまって残念。ピンチ・ヒッターはマルク・アルブレヒト。もともとブルックナーの交響曲第9番と、スカラ座合唱団との《テ・デウム》というプログラムでしたが、《テ・デウム》と交響曲第4番に。

総勢100人ほどの合唱団(微妙に遅れがち)は、すごい迫力。最後は「絶対、宗教曲であること忘れてる!!!」と確信させられる、オペラチックな盛り上がりでした。微妙なテンポの揺れをたくさん要求する指揮者で、特に後半の《ロマンティック》はコン・ミスさんが大変だったと思います。想像していたよりずっと丁寧な演奏でした。1番下(2階)のボックス席(Palco)の中央から5つ目くらいの1列目で、€102。

ボックス席の一列目、椅子が向かい合っている。後ろにもう4席

19日(火)は、ロッシーニの《チェネレントゥーラ》。いやあ楽しかった〜。オーソドックスなポネルの演出で、難しそうな早口言葉のフレーズや細かい重唱なども無理なく進みます。男性合唱はオペラでも微妙に遅れがちで、どうもこの合唱団の特性のようでした。どの歌手も良かったけれど、やはり主役のクレベッサがチャーミング。ブッファ陣も達者。

ベルリンやウィーンなどドイツ語圏の歌劇場では、歌手たちの圧倒的な声量に驚かされましたが、ミラノでは、「声」よりも「歌」を聴く楽しさを存分に味わいました。メロディーの刻み方というかフレージング感が自然で、聴いていて気持ちが良い。終演が11時過ぎで、カーテンコールがちょっとおざなりだったのが気の毒でした。平土間(Platea)の左寄り前から3列目で、€276(平土間全部と5階までのボックス席1列目が、全てこのお値段!!)。

最上階(Galleria)より見下ろす

このオペラよりも面白かったのは、18日(月)に行われたマウリツィオ・ポリーニのリサイタル(平土間左寄り、通路の後ろ2列め。€102)。歌劇場でオケやピアノのコンサートもやるんですね。舞台上を暗くして、天井の左右2ヶ所から中央のピアノを明るく照らすライティング。舞台に出るには階段を2、3段降りる構造。舞台端は暗いので、ポリーニさんかなり慎重にゆっくりと降りていました。

第1部が、ノクターンやポロネーズなどのショパン、第2部がドビュッシーの前奏曲集第1巻全曲という、昨年の日本でのリサイタルとほぼ同じプログラム構成。イタリアのお客さんは、ドビュッシーに少し戸惑っているようでした。2曲目のアンコールとしてショパンのバラード第1番を弾き始めたら、前の列の男の人がガッツポーズ。難所も乗り越えて弾き終わると、観客大熱狂!!!

ショパンのエチュード集などの録音を思い出すと、ポリーニもやはり歳だなあとちょっと複雑な感じ。でも、ドビュッシー良かったし、そもそも77歳でリサイタルってやはりすごいことです。何よりイタリア人たちの盛り上がり、忘れられません1

ポリーニ@スカラ座

おまけ:20日(水)の夕方、スカラ座博物館に寄ったら、翌週の演目のリハーサル中。ガラス越しですが、ムソルグスキーの未完のオペラ《ホヴァンシチナ》の、衣装や舞台装置付き通し稽古(ゲネプロ)を見ることができました。こんなマニアックな演目も取り上げるのですね(もちろんロシア語)。平土間の真ん中にデスクを置いて何人かがモニターに見入り、時折オーケストラ・ピットの指揮者に伝令が何やら伝えたり。もう博物館を閉めると追い出されるまで、30分以上ずっと見ていました。

  1. チケットはスカラ座公式サイトで注文。英語版有り。席も選べます。20%の手数料込みの値段ですが、公式サイトを使わないとさらに手数料が€50以上も上乗せされますので、注意が必要です。

コラム更新が遅れてごめんなさい。今日の1曲をチェックした方はご存知ですが、2月6日から資料調査((271) コラム番外編:ヴァティカン図書館で調査してきた!!参照)で、ドイツのドレスデンに来ています。ドレスデンといえば州立歌劇場ゼンパーオーパー。ザクセン王国の宮廷歌劇場として、ゴットフリート・ゼンパー(1803〜79)の設計で建築されたので、こう呼ばれます。

雪が残るゼンパーオーパー(クリックで拡大)

1838年ザクセン王ヨハンの建設依頼を受け、41年に開幕。1869年、ガス管修理の火災でほぼ全焼。7年の立て直し工事の後、1878年に第2次ゼンパーオーパーが開幕。第2次世界大戦中に空襲で焼け落ちましたが、1977年から復興工事が始まり、1985年に再開。

1817〜26年にはカール・マリア・フォン・ヴェーバー、1843〜49年にはリヒャルト・ヴァーグナーが音楽監督を務めています。世界初演はヴァーグナーの《リエンツィ》《さまよえるオランダ人》《タンホイザー》、リヒャルト・シュトラウスの《サロメ》《エレクトラ》《薔薇の騎士》などなど。

平土間の前から4列目ほぼ中央席(€85)でレハールの《メリー・ウィドウ》、3階の中央1列目(€99)でモーツァルトの《フィガロの結婚》を見ました。音が良いとは聞いていたのですが、すぐそこのオーケストラ・ピットから聴こえる音が柔らかくまとまっていて、シュターツカペレ・ドレスデンのアンサンブル、さすが!!!

3階より

3階席からはピットの奥が丸見え。フィガロでは他の木管に比べてクラリネット暇そう!とか、ホルンここで使うのか!などと楽しめました。テンポはいずれも速め。幕間は1回だけで、トントン進む感じ。《メリー・ウィドウ》は具象(未亡人はヘリコプターで登場)、《フィガロ》が抽象寄りの演出でした。

ガイド・ツアーによると、ホール内の淡い色合いはゼンパーの趣味。2階以上のボックスを取り除いて、見安くしてありました。椅子が大きめ。しかも、隣との間がちょっと広い。定刻前にチューニングして、ほぼ定刻に公演が始まるのも、新鮮。フレンチ・カンカンの踊り子たちが迫力満点だったので、急遽バレエ《カルメン》のチケットを購入。ゼンパーオペラ、すっかりファンになりました。

天井棧敷から見下ろす。ボックスではなく柱のみ

4月の聖フィル第20回記念演奏会で取り上げる、マーラーの交響曲第1番《巨人》((169) 交響曲と歌曲:マーラーの《巨人》(170) マーラーの交響曲と実用音楽も参照)。みなさま、どのような「巨人」をイメージしておられるでしょうか。

このタイトルは、マーラーが1893年ハンブルクで指揮した第2稿に、ジャン・パウルの著作『巨人』にちなんで加えたもの。最初にブタペストで指揮(1889年)したときは、ただの「2部から成る交響詩」でした。この初演が成功しなかったので、「交響曲形式による音詩(注:交響詩のこと)《巨人》」に改訂。この第2稿も成功しなかったので、1896年にベルリンで指揮するとき第2楽章を削除して交響曲に仕立て直し、《巨人》を含め全ての標題を削除しました。

西洋音楽史の講義で、このような複雑な成立史を説明するのですが、ジャン・パウルがどのような人で、『巨人』がどのような小説なのか、知りませんでした。《ニーベルンクの指輪》のファーゾルトやファーフナーのような、文字通りの巨人? それとも何かの比喩?? ドイツ人なのにどうしてジャン???

ジャン・パウルはペン・ネームで、本名はヨーハン・パウル・フリードリッヒ・リヒター(Johann Paul Friedrich Richter 1763〜1825)。ドイツの中でも最も後進的だったバイロイト侯国の小村ウンジーデル生まれ1。オルガニスト兼教師、牧師の父が79年に亡くなり、家庭は困窮。81年にライプツィヒ大学神学部に入学しますが、すぐに読書と創作に没頭。文壇的には不成功で、家庭教師などで収入を得ます。

93年、ジャン=ジャック・ルソーに敬意を表したペン・ネーム、ジャン・パウルを使って長篇小説『見えないロッジ』を出版。『ヘスペルス』や『フィクスライン』で成功を収めながら『巨人』を書き続けます。完成に10年かけ、4巻本として1800〜03年に出版。パウルは構想の段階からこの作品を、自分の「マンモス=巨人」「枢要にして随一の大長篇小説」とみなしています。

図1:ジャン・パウル『巨人 I』1971

日本では、古見日嘉の訳で1971年に出版されました(現代思潮社、古典文庫44)。第1巻表紙には右下に黒いインクで:

牧歌的私服への憧憬と、虚偽と虚栄とを憎む批判精神、ローマン的な空想の昂揚と現実的思慮分別、これら矛盾を最大の振幅をもってくりひろげつつ、世界を一冊の本に置換せんとした厖大な《物語》。

左下には赤茶のインクで:

バロック精神の息吹に充ち、ドイツ古典主義とローマン派との橋わたしを演じつつも、偏愛か黙殺かという極端な運命に弄ばれてきた、J・パウルの代表作を、パウル研究の第一人者による多年の成果を得て、ここに初めて完訳する。

物語冒頭は:

とある美しい春の宵に、若い、スペインの伯爵セサラは、ショッペとディーアンとを従えて、翌朝、マジョーレ湖中のボロメオ諸島の1つ、イソラ・ベラ(美島)へと渡航するために、セストへやってきた。誇らかに、花と咲くこの青年は、今回の旅行によって燃えあがり、次の朝のことを考えては、ほてっていた。この朝こそ、彼は、その島を、春の、飾り立てられた、この玉座を見るはずであり、また、二十年間、彼に約束されていた、ある人に、この島で会うことになっているのだ2

このスペインの若い伯爵アルバーノ・ド・セサラが主人公。文章自体は特に難しくないのですが、アルバーノの成長物語が延々延々と続いて、なんだか要領を得ません。1997年に出版された新装版の巻末にわかりやすい解説があるという情報を見つけて、図書館に直行(注1参照)。図1の3巻本が1冊になった新装版は、B5版厚さ5cm以上の巨本!! 表紙左下の惹句は:

図2:ジャン・パウル『巨人』1997

萌え輝く色彩と至深のひびきを持つ交響曲的小説により、〈散文〉の可能性を追求した夢の巨匠、ジャン・パウルの畢生の大著の完訳

交響曲的小説??を追求するのは置いて、さっそく巻末の「解題」を見ると。「最初に読者の便をおもんばかって『巨人』の梗概を記しておく」。感謝!!! ファーゾルトやファーフナーのような巨人は出てきませんから、巨人のお話ではありません。でも、700ページを超える大長篇で、しかも物語は錯綜して情報量がむやみと多い。そこが、マーラーの交響曲第1番と共通していると言えるかもしれません。

当時のウィーンの聴衆たちにはこの曲の響きは斬新すぎて、「騒音」でした。ウィーン初演の際、ハンスリックは「私たちのうちどちらかは気が狂っている。そしてそれは私でそうはない」と批評したそうです3

  1. 以下の情報は、ジャン・パウル『巨人』 古見日嘉訳、国書刊行会、1997年(新装版)の巻末に収められた岩田行一の「『巨人』解題」750−774による。
  2. ジャン・パウル『巨人 I』古見日嘉訳、現代思潮社、1971年、11ページ。
  3. 渡辺裕「交響曲第1番」『ブルックナー/マーラー事典』東京書籍、1998、300。

遅ればせながら、明けましておめでとうございます。2019年がみなさまにとって良い年となりますように。今年もオケ部屋をよろしくお願いいたします。

[12] 実は結構良い人だったサリエリに続くモーツァルトをめぐる人々シリーズ第2弾は、ミヒャエル・ハイドン(1737〜1806)。古典派3巨頭のひとり、ヨーゼフ・ハイドン(1732〜1809)の5歳下の弟。ザルツブルク宮廷音楽家で、ヴォルフガンク・アマデウス・モーツァルト(1756〜1791)やその父レオポルト(1719〜1787)の同僚でした。様々なジャンルで多くの作品を残し、特に宗教音楽は高く評価されます。

ヨーゼフと同様ミヒャエルも、現在のオーストリアとハンガリーの国境に近い、ローラウに生まれました1。父は車大工。馬車や荷車の車輪を作ったり修理したりする職人です。職業が世襲の時代に、楽譜が読めない両親から音楽史に名を残す作曲家が2人も生まれるなんて、すごいことです。

8歳のとき、兄に次いでウィーンの聖シュテファン大聖堂の聖歌隊学校に入学。12歳までには、大聖堂で代理オルガニストも務めるように。1753年ころ声変わりして聖歌隊学校をやめ、その後はイエズス会の神学校に所属していたようです。

彼の死者小伝(1808)によると、1757年ころウィーンを離れ、現ルーマニアのグロースヴァルダイン司教の楽長に。作品の筆写譜がオーストリア東部地域にたくさん残されており、1750&60年代にはかなり名前が知られていたのでしょう。ザルツブルク大司教シュラッテンバッハの目に留まり、1762年に大司教宮廷楽団のコンサートマスターに任命されます。オルガンを弾くことも、職務に含まれていました。

シュラッテンバッハ大司教の死に際して、レクイエムを作曲。1777年には、聖三位一体教会のオルガニストになります(息子ヴォルフガンクがその職に就けなかったことに腹を立て、レオポルトはそれまで賞賛していたミヒャエルを、大酒飲みで怠惰でありがちだと描写しました)。ヴォルフガンクが1781年にウィーンへ移った後は、宮廷オルガニストの職を引き継ぎました。

1790年代には作曲の教師として活躍。《魔弾の射手》で有名なカール・マリア・フォン・ヴェーバー(1786〜1826)は、1797年からミヒャエルに和声学の基礎と対位法を学んでいます。1806年、兄ヨーゼフよりも先に68歳でザルツブルクで亡くなりました。

兄ヨーゼフには及びませんが、ミヒャエルも多作な作曲家で、特に宗教曲は(途方に暮れるくらい)たくさんありました。でも、ミヒャエル・ハイドンと言えば、モーツァルトの交響曲第37番を思い出す方が多いと思います。モーツァルトの交響曲第37番が欠番なのは、37番と信じられていた曲が実はミヒャエルの作品だったからですよね(続く)。

  1. Blazin, Dwight, ‘Haydn, Michael,’ The Grove Dictionary of Music, 2nd ed., vol. 11, Macmillan, 2001, pp. 271-280.

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