遅ればせながら、明けましておめでとうございます。2019年がみなさまにとって良い年となりますように。今年もオケ部屋をよろしくお願いいたします。

[12] 実は結構良い人だったサリエリに続くモーツァルトをめぐる人々シリーズ第2弾は、ミヒャエル・ハイドン(1737〜1806)。古典派3巨頭のひとり、ヨーゼフ・ハイドン(1732〜1809)の5歳下の弟。ザルツブルク宮廷音楽家で、ヴォルフガンク・アマデウス・モーツァルト(1756〜1791)やその父レオポルト(1719〜1787)の同僚でした。様々なジャンルで多くの作品を残し、特に宗教音楽は高く評価されます。

ヨーゼフと同様ミヒャエルも、現在のオーストリアとハンガリーの国境に近い、ローラウに生まれました1。父は車大工。馬車や荷車の車輪を作ったり修理したりする職人です。職業が世襲の時代に、楽譜が読めない両親から音楽史に名を残す作曲家が2人も生まれるなんて、すごいことです。

8歳のとき、兄に次いでウィーンの聖シュテファン大聖堂の聖歌隊学校に入学。12歳までには、大聖堂で代理オルガニストも務めるように。1753年ころ声変わりして聖歌隊学校をやめ、その後はイエズス会の神学校に所属していたようです。

彼の死者小伝(1808)によると、1757年ころウィーンを離れ、現ルーマニアのグロースヴァルダイン司教の楽長に。作品の筆写譜がオーストリア東部地域にたくさん残されており、1750&60年代にはかなり名前が知られていたのでしょう。ザルツブルク大司教シュラッテンバッハの目に留まり、1762年に大司教宮廷楽団のコンサートマスターに任命されます。オルガンを弾くことも、職務に含まれていました。

シュラッテンバッハ大司教の死に際して、レクイエムを作曲。1777年には、聖三位一体教会のオルガニストになります(息子ヴォルフガンクがその職に就けなかったことに腹を立て、レオポルトはそれまで賞賛していたミヒャエルを、大酒飲みで怠惰でありがちだと描写しました)。ヴォルフガンクが1781年にウィーンへ移った後は、宮廷オルガニストの職を引き継ぎました。

1790年代には作曲の教師として活躍。《魔弾の射手》で有名なカール・マリア・フォン・ヴェーバー(1786〜1826)は、1797年からミヒャエルに和声学の基礎と対位法を学んでいます。1806年、兄ヨーゼフよりも先に68歳でザルツブルクで亡くなりました。

兄ヨーゼフには及びませんが、ミヒャエルも多作な作曲家で、特に宗教曲は(途方に暮れるくらい)たくさんありました。でも、ミヒャエル・ハイドンと言えば、モーツァルトの交響曲第37番を思い出す方が多いと思います。モーツァルトの交響曲第37番が欠番なのは、37番と信じられていた曲が実はミヒャエルの作品だったからですよね(続く)。

  1. Blazin, Dwight, ‘Haydn, Michael,’ The Grove Dictionary of Music, 2nd ed., vol. 11, Macmillan, 2001, pp. 271-280.

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