5月に聖フィルの弦分奏をご指導いただいたときに對馬哲男先生が言っておられたように、シューマンはかなり変わった人でした。彼の交響曲(このうち、第4番ニ短調を次回9月の聖フィル定演で取り上げます)の作曲経緯からも「変」なところが伺えます。

シューマンは特定のジャンルの作品を固めて作曲しました。最初ピアニストを目指したので、作品23までの出版作品はすべてピアノ独奏曲。ピアノの恩師ヴィーク自慢の娘、クララとの結婚が叶った1840年は、120曲以上の歌曲が生まれた「歌の年」。翌1841年に入っても歌曲の作曲が続きますが、1月23日以降「オーケストラの年」に1

アドルフ・ベットガー(1815〜70)の「春の詩 Frühlingsgedicht」最終行「谷間には春が燃え立っている」にインスピレーションを得て、交響曲《春》のスケッチ開始。翌24日にアダージョ(第2楽章)とスケルツォ(第3楽章)が完成、25日に最終楽章に取り組みます。

日記を兼ねた「家計簿」に「交響曲への燃える思い、眠れぬ夜」と書き込んでいるように、おそらくほとんど寝ないで作曲を続けたのでしょう。26日には「万歳! 交響曲が完成した!」の記述。ピアノ譜の形のスケッチとはいえ、交響曲全体を4日で仕上げるなんて有り得ない!! シューマンってやっぱり「変」!!

オーケストレーションは2月21日に完成し、3月6日には友人メンデルスゾーンの意見を聞きに行きます(何しろシューマン、オーケストラ曲は初めてですから)。そして同月31日に、そのメンデルスゾーンが指揮する、ゲヴァントハウス管弦楽団により初演。大成功を収めました。彼が保管していた初版譜に添えられた記録によると、59回も演奏されたそうです2

「オーケストラの年」は続きます。4月12日に次のオーケストラ作品(《序曲、スケルツォとフィナーレ》作品52の原形)、5月20日にピアノとオーケストラのための《幻想曲》イ短調を作曲(後に、ピアノ協奏曲作品54の第1楽章に)。5月29日にはニ短調交響曲にとりかかり、6月末にスケッチ終了。9月には別のハ短調交響曲にも取り組みますが、結局これは未完に3。10月4日にニ短調交響曲の推敲を終え、12月6日にゲヴァントハウス管弦楽団により初演。でも残念ながら受けは良くありませんでした。この曲はお蔵入りに。

しまい込んでいた旧作を思い出した(??)のは、ちょうど10年後の1851年。12月12日から19日まで改訂し(第1楽章冒頭のアウフタクトも、変更のひとつです)、53年12月30日にシューマン自身の指揮で初演、同年出版されました。ただ、45年12月にスケッチを始めたハ長調交響曲が第2番、デュッセルドルフ市の音楽監督になった1850年に作られた交響曲《ライン》(聖フィル♥コラム (154) ラインと循環形式 (1)(155) 同 (2) 参照)が第3番としてすでに出版されていましたから、2番目に作曲されたニ短調交響曲は第4番に。

ちなみに1840年「歌の年」、41年「オーケストラの年」の続きは? 1842年は「室内楽の年」(ピアノ5重奏曲など)、43年は「オラトリオの年」(《楽園とペーリ》)、44〜45年は対位法を研究した「フーガの年」です。シューマンって、やっぱり「変」ですね。

  1.  2人の「家計簿Haushaltbuch」の記録によると、1月2日から21日までハ長調の交響曲に取り組んでいましたが、この曲に関しては研究者の意見が一致していません。藤本一子『シューマン』音楽之友社、2008、72ページ。
  2. 前掲書、170ページ。
  3. 第3楽章が、後にピアノ曲作品99に流用されました。

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